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バリマン+モランデルその1『別れて』(Frånskild, 1951)

映画 Bergman

きゃー、また更新が止まっていましたわ・汗。

ここ1ヶ月ほどの私は、授業のない日は毎朝王立図書館に通っては視聴覚資料コーナーでDVD化されていない古いスウェーデン映画を観るのが習慣になっております。

今年中に最低でも300本、スウェーデン映画を観ると決意したのですが、計画的に観ていかないとなかなか消化できないので、頑張ります。

今日紹介するのは、グスタフ・モランデル(Gustaf Molander, 1988-1973)とバリマンのコラボレーション作品の1本『別れて』*1(Frånskild, 1951)です。

とってもいい作品でいたく感銘を受けたのですが、テレビ放送された時の録画しかない状態で、画質が悪いのが残念でした。

『別れて』(Frånskild, 1951

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51年の作品にして、最近流行の(!?)いわゆる熟年離婚を扱っています。

<あらすじ>

専業主婦のヤットルードは、20年連れ添ったエンジニアの夫トーレから突然離婚を切り出される。トーレは、専業主婦の妻と違い、仕事上の関心を共有できる同僚の女性セシリアとの再婚を望んでいたのだ。娘のエルシーは既に結婚し家を出ているため、独り身になったヤットルードは未亡人ノデーリウス夫人のもとで下宿人として暮らし始める。同じ屋根の下に暮らす夫人の息子・若き医師バッティルは婚約者マリアンヌがいるが、孤独なヤットルードを励ますうち、次第に彼女に惹かれていく。バッティルの勧めでデパートでの仕事を始め、少しずつ元気を取り戻していくヤットルードも、息子ほど年の離れたバッティルに心を寄せ始めるのだった…。

ネタバレしてしまうと、二人は一度は結ばれるものの、やはり理性的に年の差を考えたヤットルードが身を引き、嫉妬に狂うマリアンヌにバッティルを託して(?)、新天地へ旅立つというのが結末です。悲恋ではあるものの、職を得て自立し、「自らの孤独と友達になった」ヤットルードが晴れやかな顔で列車で旅立つラストシーンは、爽やかさも感じさせます。

 

モランデルは、職人監督というべきか、サイレント時代からものすごく多作な監督で、バリマンやシューバリより一段下に置かれがちなのですが、女性の描き方が巧くて個人的には好きな監督です(ただ、退屈な作品もあります)。スウェーデン映画協会のデータベースによれば、近年フェミニズム的観点からの研究が進んでいるそうですが、納得です。

ハリウッドに行く前のイングリッド・バーグマンとの仕事も有名で、『間奏曲』(Intermezzo、1936年)や『女の顔』(En kvinnas ansikte、1938年)などが日本でもこの何年かの間に上映されていたように思います。

(『間奏曲』はもう本当に名作で、80年前の映画ですが、今見てもイングリッドの決断に涙を誘われます。)

ベルイマンの脚本で撮った本作と、『顔のない女』(1947年)、『エーヴァ』(1948年)もどれも秀作で、アクセスが難しいのが悔しいところ。

 

本作の魅力は何と言っても主演のインガ・ティードブラード(Inga Tidblad)。

f:id:silkesarstid:20170224023919j:plain (写真はWikiより転載)

ご覧の通り、上品な美貌がとても印象的ですが、驚きなのは1901年生まれなので、本作出演時50歳だということです!

相手役のアルフ・シェリーン(Alf Kjellin)は40年代の代表的なスター俳優で、バリマン脚本では他に『もだえ』の主役なども演じていますが、1920年生まれでインガと19歳差なのですね。役柄の設定通りほぼ親子ほどの年の差なのです。

劇中ヤットルードは「私がもっと美しくて才能があったら…」などと語るのですが、中年とは思えない美しさなので、若干説得力がないのはご愛嬌でしょうか・笑。

面白いなと思ったのが、メインの3人の女性(ヤットルード、セシリア、マリアンヌ)の対比です。

セシリアと対面するシーンで、ヤットルードは男性に必要なのは家庭、抱きとめてくれる暖かい胸だと主張し、「あなたがトーレに与えられるのは家庭じゃなくてラボじゃないの」とセシリアを非難します。その慣習的な考えは、職業婦人であるセシリアに、同僚として互いを高め合える関係がトーレにとってはより価値があるのだと論破されてしまいます。不倫相手が若くて美しい女性、というのではないところが、女性の社会進出の早かったスウェーデンらしいところなのかなあと月並みながら感じました。50年代の日本ではなかなか考えにくい設定だと思います。結局セシリアは娘のエルシーとも不和を生じることなく、むしろ母親のヤットルードが責められ、彼女が築いてきた「家庭」から追い出されてしまうというのが皮肉です。

面白いのが、職を得て自立したヤットルードに大人の女性の成熟した魅力を感じるバッティルの婚約者が、若くて可愛いが少しおバカさんなマリアンヌだというところ。しかし、ヤットルードは家庭を奪われてしまったセシリアに対する敗北感とはまた別の劣等感を、マリアンヌに対して感じるのです。つまりは若さに対する羨望なのですが、それが非常に露骨に表現されるのが新鮮でした。

ヤットルードの勤務先のデパートに洋服を買いに来たマリアンヌ(狙いは別でしょうが)の試着を手伝う際に、下着姿で鏡の前に立つマリアンヌをヤットルードがじっと見つめて、その体の美しさを褒めるのです。

美しい女性が美しい女性の肉体を眺めて賞賛するという構図が、ローラ・マルヴィの論じたいわゆる映画における欲望の対象云々の議論からして、とても興味深いし新しいなと思いました。

ヤットルードが最終的に身を引く、というところはやはり65年前の作品ですね。劇中エルシーが出産して、ヤットルードはなんとおばあちゃんになってしまうのですが、今なら50歳だろうが孫がいようが、この美しさならヤットルードがバッティルと結ばれてハッピーエンド、という展開も全く問題なしでしょう。時代は進むものです。

ちなみにマリアンヌを演じたドーリス・スヴェードルンド(Doris Svedlund、写真左)は、バリマンが初めて自作脚本で撮った『牢獄』(Fängelse、1949年)で薄幸のヒロイン、ビルギッタ・カロリーナを演じた、愛らしい容姿の女優です。本作ではおバカな嫌な女ですが・笑。

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2年後に『モニカ』でブレイクするハリエット・アンデションがほんのちょい役で顔を出していたりもします。後日記事を書くと思う『街の眠る間に』(Medan staden sover、1950年)にも出ているのですが、やはり彼女はスター性があるというか、端役でも目を引きます。

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作品のスティルはStiftelsen Ingmar Bergmanから転載しました。

 

*1:確か三木さんは「離婚」とストレートに訳されていたと思うのですが、ちょっと詩的に(?)「別れて」にしてみました