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Beröringen/ The Touch(1971)

バリマン作品自体について書くのは、実は初めてですね。

表題作"Beröringen"/"The Touch"は、アメリカとスウェーデンとの共同製作の、英語のバリマン映画(もう一本が『蛇の卵』)で、DVDが手に入らず、実は今まで観たことがなかったのです。(You TubeにTVの画面をビデオで撮った映像があるにはあったのですが、あまりに動画環境が悪すぎて諦めていました。)

Filmhusetの図書館にも置いていない映画も、王立図書館(Kungliga Biblioteket)の視聴覚資料室で観ることができるということに漸く気がついたのが先週なのですが(遅い)、おかげさまで遂に観ることができました。

しかし、バリマン本人の言葉に違わず、これは駄作と言わざるを得ないのが正直な感想です。とはいえ、異色のバリマン作品で、観たことがある方は日本では少ないと思うので、以下にまとめてみます。

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あらすじ

専業主婦のカレン(ビビ・アンデション)は、医師の夫・アンドレーアス(マックス・フォン・シドウ)と二人の子供と裕福だが平凡で穏やかな生活を送っている。病院で母を看取って泣いているところを、偶然居合わせたアメリカ人の考古学者・デイヴィッド(エリオット・グールド)に声をかけられる。彼は、アンドレーアスが処置をした患者であり、夕食に彼を招いたことがきっかけで、カレンはふとした思いつきのように彼と不倫の関係を持ち始める。しかしデイヴィッドは精神的に不安定で、二人の関係は初めから穏やかなものではなかった。デイヴィッドは、ブルジョワ家庭のぬるま湯に浸かって、ルーティンとしての家事を優先するカレンを非難し、時には暴力を振るう。それでも次第に心を通わせ始める二人。その関係を知ったアンドレーアスが、逢瀬の場に姿を現した時、デイヴィッドが実は自殺未遂で搬送されたことが発覚する。夫との家庭生活と愛人との間を揺れ惑うカレンが、どちらが父親か分からない子を身ごもる一方、デイヴィッドは彼女から逃げるようにロンドンへと旅立っていた。夫から叱責を受けながらも、ロンドンを訪ねるカレン。そこで彼の妹と出会ったカレンは、彼との未来を選ぶより家庭生活へ戻るべきだと悟る。彼女無しでは生きられない、二人で新生活を始めようと真摯に訴えるデイヴィッドを退けるしかできない彼女に投げつけられたのは、「君は嘘をついているんだ!」という言葉だった。

背景

バリマン自身の本作に対する抵抗感は、すでに制作ノートの段階で明瞭に示されていたようです。

「脚本は内なる抵抗の中で書き上がった。タイトルはBeröringen(ふれあい)。でなければ別にどんなタイトルでもいいのだが。8月3日まで休みを取り、それから本格的に準備を始めることになる。憂鬱で気乗りがしない、できればこの映画を作るのは遠慮したい」(Bergman, p.74)

どうもアメリカ側がかなりの予算を投じたようで、それが魅力的だったのか、「誘惑に負けるよりは抵抗する方が多い」(同、p.76)バリマンがまんまと(?)乗せられてしまった形でしょうか。デイヴィッド役は始めダスティン・ホフマンが候補だったようですが(Steene, p.295)、結局エリオット・グールドになりました。

デイヴィッドが考古学者で発掘調査に来ているという設定を、ゴットランドでのロケに活かしたようで、物語はほとんどスウェーデンで展開されます。そのため、全編が英語というのに、どうにも違和感がぬぐえません。ひどいのは、スウェーデン人同士ですら英語で会話するところ。これについては、バリマンの言によれば、当初はスウェーデン人同士はスウェーデン語で話し、英語は英語話者との会話のみのバイリンガル映画になるはずだったところを、アメリカ側の希望で全編英語になったとのこと。当初のままなら「まだ少しは耐えられる作品になっていただろうと思う」(Bergman, p.76)と述懐しています。

 もともと自分向きの役ではないと乗り気ではなく、しかも役を受けた後に妊娠がわかったビビに主演を任せたのは、「困難な外国での企画では、忠実なる友が必要だった」(同、p.76-77)からとか。何で結局撮ることにしたんだ!と叱咤したくなるような言い訳のオンパレードです。

この作品の撮影現場を捉えたStig Björkmanのドキュメンタリーも一緒に見たのですが、そこで映されているエリオット・グールドが出ているシーンでは、ほぼ全部スウェーデン語で演出していました。バリマンは、ほぼネイティヴ並みに英語が堪能な今のスウェーデン人と違いそこまでの英語力ではなかったので、やりにくかったんでしょうが、もし常時あんな調子だったのならグールドが気の毒。

評価

ベネチア国際映画祭がプレミアだったようですが、評価は賛否両論でした。スウェーデンメディアは大体共通して、ソープオペラ的内容に否定的な態度を示したよう。カレンに見られる女性の描き方については、時代遅れだという批判の一方、ブルジョワ的家庭生活を打破しようという意思を認める態度もあったそうです。英語圏でも同じキャラクターの造形を評価する声はあったようですが、とはいえ、全体的に見れば、国内外でそれほど高評価は得なかったようです。

バリマン自身が恥じているという自作品のうちの一本が本作(Bergman, p.251)なので、本人は本当に気に入っていなかったんでしょう。ちなみにもう一本が、『そんなことはここでは起こらない』(Sånt händer inte här, 1950)ですが、これは完全なる雇われ仕事で、バリマン自身が公の場での公開を禁じたと言われるほど悪名高い作品。私は観たことがありませんが(王立図書館にもなかったような気がするのですが、改めて調べて見ます)、どれだけひどいのか気になるところではあります。

感想

上にもちらっと書いたのですが、本作はスウェーデン語を知らない人の方が素直に観られるのかもしれません。バリマン作品はスウェーデン語と切っても切れないものなので、 ビビ&マックスの二人が英語で会話しているシーンがあまりにも不自然すぎて、物語への参入を阻害してしまうのです(少なくとも私にとってはそうでした)。役者自体は英語は堪能とはいえ、特にビビの方の演技がやはりぎこちなく、そういう外的要素が邪魔をして、映画そのものを見ること自体、途中まではなかなか難しかった。

 全体的に、バリマンがアメリカ側の期待に応えようと、ソープオペラに「ベルイマン的要素」(教会とかマリア像とかスウェーデン的風景とか)を散りばめました、というような意図が見え隠れするようで、ただひたすら白けるばかり…。人物造形もいまいちで、カレンが不倫に走る必然性が感じられない。この必然性というのは本来別になくても構わないのです。例えば『ペルソナ』のアルマの少年たちとの性交渉のように、理屈では測れない衝動とか、自己の存在に対する虚しさへの反動等々の表れであってもいい訳です。が、本作では、バリマンが得意とする、そういう情動に説得力を与える演出が欠落している。自己破壊的なキャラクター・デイヴィッドも、これは上のミスキャストだという意見が適当なのか、グンナル・ビョーンストランドやアールランド・ヨーセフソンが演じていれば、もうちょっとリアリティも出たのではないかと思わずにいられないほど、表層的なものに止まっています。 

 デイヴィッドが写真を見せるシーンなど、ちょこちょこと真剣に捉えるのに値するような箇所もあるにはあるのですが、全体的に見れば、下手くそなバリマンのパロディ作品を観ているかのようなのです。

 脚本の方も未読なので、チェックしてみます。それから初めて判断できることかもしれませんが、映画を観ただけで感じたのは、やはりバリマンの書くスウェーデン語の台詞が、いかに「バリマン」という映画作家の構成要素として不可欠なものか、ということです。50年代にブレイクした時から、ハリウッドからのオファーはかなりあったのに断っていた理由も分かるというか、改めて、スウェーデン語とスウェーデンという国と「バリマン」の緊密な繋がりを再認識させてくれるにはうってつけの作品でした。

 『蛇の卵』ではここまでの違和感は感じなかったのですが、あちらはあちらで別の意味で異色の作品なので、単純な比較はしにくいですね。

 そんなこんなな鑑賞体験でしたが、これからも、マイナーなTV作品や、脚本だけバリマンが書いている古い映画など、これまで観られていなかった作品をどんどん消化していきたいと思います。 

 (写真はStiftelsen Ingmar Bergman HPより)

参考文献:

  • Bergman, Ingmar (2008). Bilder. Stockholm: Norstedt.
  • Steene, Birgitta (2005). Ingmar Bergman: a reference guide. Amsterdam: Amsterdam University Press.