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I begynnelsen var ordet

Bergman 映画

去年スウェーデンにいたころに購入していたのに、今の今まで読めていなかったMaaretの著作、I begynnelsen var ordet: Ingmar Bergman och hans tidiga författarskap(『はじめに言葉ありき: イングマル・ベルイマンと初期の執筆活動』)を漸く読了しました。

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題名の通り、これまでほとんどが未発表だった若き日のベルイマンの著作を紹介しながら、<作家>としての発展を追うという内容なのですが、実は昨年Maaretご本人とお会いした際にも「読んだ?」と聞かれていながらずっと読んでいなかったという体たらく…。私の卒論には直接関係ないかな、と思っていたのですが、読んでみて、Maaretが聞いた理由が少し分かりました(後で詳述)。

Revisitedの記事でも簡単に触れたのですが、この本のきっかけは、Maaretがベルイマン本人から、フォール島の自宅の一室に、本人曰く「すげえゴミの山」(本書、p.12)になっている「ありとあらゆる」原稿・写真・創作ノートその他もろもろがあるのだが、見てみないか、と持ちかけられたことです。

 

本書端書き(pp.11-18)によれば、Maaretは博士論文(Spel och speglingar : en studie i Ingmar Bergmans filmiska estetik)の試問が済んで間もない頃に一度ベルイマン(彼女の論文を読んだらしい)からコンタクトを受けていたそうです。その後暫く経ってから、映画雑誌の特集号で、インターメディアリティの観点から、<作家>ベルイマンを紹介したいと考え、それに伴い彼の映画化されなかった50年代初頭の脚本”Fisken. Fars för film”(『魚。映画のためのファース』)を誌上掲載するべく、版権についての伺いを立てたところ、快諾だけでなく上の誘いをもらったというのが、詳しいいきさつ。

この「ゴミの山」は、本人の言に違わず、膨大な量の種々雑多な素材がごちゃごちゃに集められていたそうで、量的にも質的にも整理をしてゆくこと自体がものすごく大変な作業だったようです。その中に、これまで研究者やベルイマン本人までも紛失したと思っていた初期の散文原稿や、学生時代の戯曲原稿など、いわばお宝級の資料が多々含まれており、ただ整理するだけして打っ棄っておくには惜しいような内容であることが分かってきます。

しかし、この初期の、これまで未発表だったテクストは、いわば芸術家の創作活動の萌芽としてだけでなく、純文学の習作それそのものとして興味深いものである。それらは「作家」イングマル・ベルイマンについて何を語るだろうか?

ならば、なぜこの掘り出し物をそれ全体として発表しないことがあろう?この考えは、既にシネマトグラフ社のアーカイブでの最初の調査の際、砂金が次から次へと現れてきたときに、私の脳裏に浮かんでいたのだ。従って、私は大胆にも尋ね、好意的だが明瞭に否定的な回答をすぐさま受けたのだった。「絶対にだめだ。僕は注目を浴びて悦に入るたちだ―でも、それはおっかなびっくりでなんだよ!」 (p.15)

 

ベルイマン自身がかつて宣言したように、彼自身は作家としての野心は持っていない(その言葉の真偽、あるいはベルイマンの底意というものは本書後半で考察されるのですが)、従って初期の作品を発表することで、どのような評価も受けたくない、ということだったのでしょう。けれども、その後、どの程度原文を引用していいかという段になり、純粋に研究目的でならどれだけ使っても構わないという返事を受けた著者は、ベルイマンの言葉を尊重しながら、本書を執筆することにしたのです。

本書は、構成としては、基本的に年代を追いながら、テーマごとに考察を行う形になっています。

例えば第一章は、最初期の1938年からの散文作品が、初の映画脚本『もだえ』にどのようにつながっていったか、前者に見出される、後者の登場人物の原型や、学校などのモチーフについて考察しています。以下の章でも、基本的には特徴的な登場人物の類型や、同一名を有する登場人物の変遷を辿りながら、家族関係、生と死、セクシュアリティ、嫉妬、不貞などなどのモチーフについて論じていく内容です。

ベルイマン本人の了承を得ているように、かなり原稿からの引用が多く、若き日のベルイマンの過激さを直接感じられて面白いところはあるのですが、スウェーデン語が完全でない一読者としては、結構読むのが大変でした。というのは、ベルイマンの語彙というのは、俗語も含め少し旧式のものが多いためです。語学的な問題を別にしても、引用元の原稿の種類が多いため混乱を招くことも、読んでいて迷子になりやすい原因かもしれません。Maaret自身が素材の把握に苦心したことは既に述べましたが、純粋に散文のもの、戯曲のもの、戯曲/脚本と名はついているが散文形式のもの、といったようにまずは形式が多種多様であること。似たような内容のいわば習作が、それら様々な形式で現れることから、どの作品がどれを指しているのか、分からなくなりやすいのです。多分題名と執筆年のリストをきちんと参照しながら読めば分かりやすかったんだと思います。再読の際には、もうちょっと整理しながら読みたいところ。

混乱しつつも、一番興味を惹かれたのは、前半部で分析されている、「強い母親と弱い父親」の類型についてです。私は卒業論文の後半部で、『秋のソナタ』におけるジェンダー概念の曖昧さを取り上げたのですが、その際、本当は深く追求したかったけど出来なかった点の一つが、同作における母親と父親におけるジェンダー特性の逆転現象だったのです。権威的な母親と、弱さによって特徴づけられる父親との対比を深く考察するなら、Maaret本人に薦められたように本書を参考するべきだったなぁと感じました。特に、その対比が明瞭に表れていたのが、映画ではなく脚本の方だったことも、執筆活動を扱っている本書の内容とリンクさせやすかったかもしれません(とはいえ、卒論では結局深い議論は出来なかったので同じといえば同じですが…苦笑)。

後書きに書かれているように、本書はどちらかといえば、作家としての若きベルイマンに光を当て、その創作活動とインスピレーション源としての彼のプライベートとの影響関係などを紐解いていくことに重点が置かれているので、テクスト自体の形式的な分析や、後期の脚本家としての執筆活動と初期の散文作品との関連性についての深化した議論はなされていません。

とはいえ、本書でなされていることは、auteurとしてのベルイマン神話の脱構築に、一つの指針を与えうると思います。

これまで私自身も何故かなーと思っていたことの一つに、『ファニーとアレクサンデル』以降、Den Goda Viljan(映画版は『愛の風景』)やTrolösa(映画版は『不実の愛、かくも燃え』)などにおける、自分のプライベートへの接近でした。本書でも、優に数十年の幅広い時間的距離を隔てて、同じモチーフが繰返し出現する(具体的な説明は割愛)ことに注意を喚起しています。これに関連して、ベルイマンが作家としての執筆活動を断念し、映画・演劇に集中していく分岐点において、それまでの散文作品で顕著だった家族関係や嫉妬・不貞など、いわば自分のプライベートから派生したモチーフからの離脱・転換が見られることが指摘されています。このような、いわゆる<映画作家ベルイマン>のイメージからすると、周縁的と捉えられがちな題材が、60年代・70年代を中心とする映画作家としての発展期をはさむ形で、前後に現れるということは、<ベルイマン観>を考え直す上で興味深いのではないでしょうか。こう言うと、また従来的なauteurismの罠にかかってしまいそうですが、果たして「ベルイマン的」題材というのは、何なのか?という問題提起もできそうです。

また、別の観点として、結論部で論じられているように、劇場のための<作家>としての彼、映画のための<作家>としての彼、そして「ただの」<作家>としての彼、という、ベルイマンという芸術家の分裂も、統一的なauteur像の解体を考えると、注目に値すると思います。

全体的に、一読しただけでは未消化な部分が多く、抽象的なことしか書けていないのが歯がゆいところなのですが、本書の一番の価値は、やはりそのアプローチの仕方の新しさだと思います。本のカバーにも書かれているように、世界で初めて、ベルイマンの個人的な素材を直接扱うことで、これまで知られていなかった青年バリマンの姿にスポットライトを当てることを通じ、作家神話に切り込む一歩を示したのは、他の研究者には不可能だったことでしょう。

日本では、ベルイマン作品というと、映画作品内世界の観念的な考察がどうしても多く、何というかこれまでのイメージの中での膠着状態の観を免れない言説が目立つので、こういう進歩的な研究によってベルイマン像が書き変えられることを心から願っている次第です。

うーむ、何とも歯切れの悪い内容になってしまいました。いずれ、もうちょっとしっかり再読します。