Mitt rum, Bergman och jag 部屋とバリマンと私

ストックホルム大学シネマ・スタディーズ修士課程に留学中の筆者がベルイマンを中心に色々綴ることを目指していたブログです。全然更新できなかったので、一旦終了してもっと自分が続けやすいブログをリニューアルオープン予定です。

Chefen Fru Ingeborg

今日は、読み終わったのがだいぶ前になって記憶が薄れつつある、ヤルマル・バリマン(Hjalmar Bergman)の長編小説 Chefen Fru Ingeborg について書きます。

f:id:silkesarstid:20160903213942j:plain

読むきっかけになったのは、言うまでもなくベルイマンです。イングリッド・バーグマンが、同郷のベルイマンと初めて一緒に仕事をしたのは『秋のソナタ』(Höstsonaten)ですが、実はそれ以前に別の映画の計画があったのです。よく引用される話ですが、Bilder(p.286)でベルイマン自身が振り返っているように、1973年『叫びとささやき』の上映のためにカンヌ国際映画祭を訪れていたベルイマンのポケットに、その年の審査員長だったイングリッドが短い手紙を突っ込んだそうです。それは、以前に彼女を主演にしたChefen Fru Ingeborgの映画化を計画していたことを思い出させる内容のものでした。

これ以外にも、バリマン(ちなみにベルイマンもバーグマンもバリマンもみんな同じバリマンです。ややこしいからカタカナ表記がこういうときは便利ですね・笑)とベルイマンは深い縁があります。

 

1941年秋に、ベルイマンは自作戯曲『カスペルの死』(Kaspers död)を学生劇場Studentteaternで上演したことでちょっとした注目を得ました。その公演を観たスティーナ・バリマン(Stina Bergman:ヤルマルの妻)が、ベルイマンをスヴェンスク・フィルムインドゥストゥリ(Svensk Filmindustri)社に招きます。彼女は当時同社の脚本部長を務めており、ベルイマンの劇作家としての素質を見抜いた彼女の計らいで、まずmanustvättareとして臨時契約を結ぶことになったのです。このmanustvättareというのは、直訳すれば「脚本校正係」程度になるかと思うのですが、ベルイマン本人の言によれば、「著名な作家の破綻した脚本に手を加える」(Bilder, p.104)仕事だったそう。3週間で「それなりの熱狂をもって迎えられた」(同)脚本を仕上げ遂せたベルイマンは、SF社にて監督助手として正規雇用で働き始めることになったのでした。

このスティーナ女史から映画におけるドラマツルギーの何たるかを学んだというベルイマンは、契約下での仕事の傍ら、経済的理由もあって自作の脚本執筆『もだえ』(Hets)を書きあげます。この脚本に対し、スティーナはベルイマンが「暗闇と恐ろしさに引きつけられていることを非難」し、「あなたはときどきまるでヤルマルみたいね」との言葉を漏らします(同、p.105)。このコメントについてベルイマンは

Jag mottog detta som ett budskap från en Högre Makt. Jag skakades invärtes av blygsam högfärd. Hjalmar Bergman var min idol.

私はこれを天の神からのメッセージのように受け取った。おずおずとした傲慢さで身内が震えた。ヤルマル・バリマンは私の偶像だったのだ。(同)

 

ふーむ、それほどまでならば読んでみないわけにはいかん、ということで、イングリッドとも縁のある本作Chefen Fru Ingeborgを手に取ったのでした。

まず、とにかく読むのに手こずったというのが率直な感想です。1924年の作品だそうですが、まだまだこの時代の長編小説を読むには語彙力が足りなすぎることを実感…。

以下、あらすじです。

 亡夫から受け継いだ高級洋装店を営むインゲボリ(Ingeborg)は、自他ともに老いを感じ始めている。息子のクット(Kurt)に店の経営を任せようと思っているところへ、妹娘のスッシ(Sussi)が突然婚約したことを聞かされる。娘の幸福を望むインゲボリは、店で見かけた立派な青年紳士を婚約者と取り違えて、クットと彼に店を共同経営させる未来図を夢想するが、それはぬか喜びに終わる。翌日姿を現した本当の婚約者ルイス(Louis)は、初めから冴えない印象を与えるばかりだった。過去の飲酒癖や父親との関係、友人の自殺未遂を止めなかったという醜聞、また貧しさゆえに卑屈な彼の母親エルサの態度など、好ましからず思うことは多いが、未来の義母を慕うルイスに、インゲボリは相反する感情を抱くようになる。彼を店の経営に携わらせようという彼女の計らいは、息子との関係に亀裂を生み、その原因となったルイスが未来の義理の息子として空白を埋め、彼女の慰めになり始める。その一方、スッシがルイスに対してぎこちない態度を取り始めたことから、インゲボリは彼の不貞を疑って心を乱し、彼の後をつけまわすようにまでなるのだった…。

 

ネタバレしてしまうと、結局インゲボリがルイスに執着したのは、彼への恋ゆえだったということになるのですが、それが明らかになるのは、自身の感情に無自覚なインゲボリにルイスの母が真実を伝えるという形でなのです。娘のスッシも含め、周りの人間がみんな気づいているのに、知らぬは本人ばかり、というのが憐れで、そのまま物語は悲劇的な結末を迎えてしまいます。高級洋装店を切り盛りしていた女傑ともいうべきインゲボリの恋の相手であるルイスという青年が、彼女の愛情に値するようなしっかりした人間ではないところも、恋愛感情の不条理とそれに振り回されてしまうインゲボリの弱さ、そしてその恋が彼女をどこへも導かないという酷い事実を浮き彫りにして、読者を何ともいえない気持ちにさせます。

図式的に捉えれば、インゲボリとルイスの関係を、疑似エディプス・コンプレックス的なものとして見ることができると思います。実の息子クット(「お母さんが生きている間は結婚しない」とまで言うほど、もともとは母を敬い慕っていた)はインゲボリと決裂し、彼女の旧知の友人である女優ユーリア(Julia)(インゲボリより一世代は若いが、年増であるのに違いはない)の恋人となり、結婚しようとします。これによって、クットはある意味では代替的母との恋愛関係を成就させたことになります。この母―息子の関係を考えると、インゲボリ、ユーリア、そしてルイスの母エルサの3人の女性の対比が面白いのではないでしょうか。エルサとルイスの関係は、当初のインゲボリとクットのような信頼に基づくものではありません。従って、ルイスがインゲボリを「ママ」と呼び慕い、意図的ではないにしろクットから息子の位置を奪ってしまうのは、あるいは<母>なるものを求めてのことと理解することができるでしょう。その結果として、ルイスと母との関係が、クットとインゲボリとの間にシフトしてしまい、クットは年上のユーリアへと思慕を寄せることになると捉えられます。こういうあまりに図式的な解釈というのは興ざめと言えばそうかもしれませんが、敢えてまとめてみたのは、ここで描かれているエディプス・コンプレックス的な母―息子の関係性が、もしかしたらベルイマンに影響を与えているのかなぁと漠然とした印象を抱いたためです(そう思ったのは、I begynnelsen var ordet という、ベルイマンが映画作家ベルイマンとなる前の若き日に執筆した、これまで未発表であった作品群を取り上げたMaaretの著作を今読んでいるからなのですが)。

大筋は上のようなものなのですが、これにさらに洋装店の古株の従業員アンデションや、浮浪者に身を落としてしまったかつてのインゲボリの同僚を始めとして、かなり登場人物が多く、色々なエピソードが含まれているので、実際問題として、これをどのように映画化するつもりだったのか気になるところです。

映像化作品としては、『女はそれを待っている』(Nära Livet)と『処女の泉』(Jungfrukällan)の脚本を手がけた女流作家のウッラ・イーサクソン(Ulla Isaksson)の脚色、Bernt Callenboによる監督、Mona Malm主演によるテレビシリーズ(1993)があるようです。テレビシリーズなら、原作に忠実に従うことも可能でしょうね。

先に書いた通り、読むのにかなり苦戦した本作なので、暫くヤルマル・バリマンを読む気力はありませんが、ベルイマンだけでなく一時期のスウェーデン映画と縁の深い作家でもありますし、ベルイマンが戯曲を演出しているものもあるので、いずれ他の作品も読みたいと思います。