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Ingmar Bergman Revisited: Performance, Cinema and the Arts

Bergman 映画

今日紹介するのは、私が進学予定のストックホルム大学映画学科所属のベルイマン研究の大家Maaret Koskinen編 Ingmar Bergman Revisited: Performance, Cinema and the Artsです。

 

私が最初に読んだMaaretの論文は正確にはどれだったか忘れてしまいましたが、彼女の著作 Ingmar Bergman: “Allting föreställer, ingenting är” Filmen och teatern – en tvärestetisk studie を読んだことは、私にとってまさしく僥倖というか、私自身がベルイマン作品を観てずっと感じていたことを、的確に言語化してくれているかのような感動と感銘を与えてくれた一冊です。それがきっかけで、彼女の博士論文(Spel och speglingar : en studie i Ingmar Bergmans filmiska estetik )や『沈黙』の多角的考察(Ingmar Bergman’s The Silence: Pictures in the Typewriter, Writings on the Screen)、雑誌への寄稿論文等を複数読みましたが、とにかくそれまで読んだことのあった他の研究者によるベルイマン論にいまいちしっくり来ないものを感じていた私に、全く新しい洞察をもたらしてくれるものばかりでした。

 

すっかり彼女のファンになってしまった私、遂に昨年の留学の最後ストックホルムに滞在する際に思い切ってご本人にお会いしたい旨、大胆にもメールを送ってみたところ、面会を快諾してくれ、Filmhusetの彼女の研究室でお話させていただく機会にあずかったのでした!感激でした!

 

彼女の指導と、後述するベルイマンアーカイヴへの容易なアクセスこそ、私の求めるものだと悟り、ストックホルム大学のマスタープログラムへの出願を決めたのでした。そして、大・大・大・難航した卒業論文執筆を経て、無事受入許可が出て、この夏から進学が決まったのですーー!嬉しすぎる。彼女によるベルイマンを扱った講義も来年春学期にあります。楽しみすぎる。

 

前置きが長くなりました。。。

 

本書のイントロダクションでは、そんな大ベルイマン研究者Koskinen氏が、ベルイマン直々に、彼の日記や創作ノート、未発表の断章・小説・戯曲、脚本の草稿から完成版まで、膨大な分量の資料・著作を管理してほしい旨頼まれ、それが端緒となって、彼の手になるありとあらゆる書き物や写真などなどがイングマル・ベルイマン・アーカイヴ(Ingmar Bergmans Arkiv)という形で保管・管理されることになったいきさつが語られています。この貴重な資料を、国際的なベルイマン研究者と共有することを狙いとして、2005年にベルイマン財団(Stiftelsen Ingmar Bergman)とストックホルム大学映画学科の協賛で開催されたイングマル・ベルイマン・シンポジウムがもととなって完成したのが、この論集というわけです。

このいきさつから推察されるように、寄せられた論文の多くはインターミディアリティに注目しています(第一章”Music, Stage, Film-Between The Arts”)。ベルイマンの場合、脚本→映画の変換が真っ先に思い浮かびますが、この章に含まれている論文4本中3本が、日本ではほとんど話題にされることのない彼の演劇のキャリアとの関連から論じたものです(1本目のMaaretの論文は、ベルイマンの執筆活動と映画との関わりを論じたもので、彼女の別の著書とも関係があると言えるのですが、ちょっと一言で説明しにくいので詳細は割愛。)。その中で面白いなと思ったのが、Marilyn Johns Blackwellの”Platfroms and Beds: The Sexualisation of Space in Ingmar Bergman’s Theatre and Film”(pp.64-85)です。彼女はGender and Representation in the Films of Ingmar Bergmanという、ベルイマン作品におけるジェンダー表象の曖昧さ・越境性を論じた、革新的な著書があります。同書は内容的にも言語的にもとても難しかったのですが、本論文はベルイマンの映画・舞台作品におけるベッドおよびプラットフォーム(舞台上で一段高くなっている部分)が、いかにパフォーマンスの場となっているかを、具体例と共に論じているので遥かに読みやすく平易なものです。

本論集の二つ目の特徴が、オーサ―シップ(authorship)に対する従来とは異なるアプローチです。ベルイマン研究が下火になった理由の一つが、映画研究全体におけるauteurism(作家主義)に対する批判的姿勢ですが、とはいえ、やはり我々は完全に「作家」を否定することはできません。特にベルイマンのような映画監督の場合、彼という「作家」の存在はあまりにも大きいと言えます。Maaret曰く、

…鑑賞者の、ある特定の監督に関する(前)知識は、映画鑑賞体験の一部である。イングマル・ベルイマンの映画は、他の作品(注:舞台や執筆活動を指す)と同様に、確かにこのカテゴリーに属している。(p.3)

このことは、私の卒業論文の出発点でもあり、日本での一般的なベルイマン理解があまりにもベルイマンという「作家」のありように影響され、それゆえに偏狭なものになってしまっていることを問題視したのでした。

本書所収の論文では、それぞれの研究者が従来の安直な作家主義的立場からの作品理解から一歩進んだアプローチをとっています。

三つ目の特徴をしるすものととして、Maaretが特記しているのが、ルンド大学所属Erik Hedlingの論文に見られる、ベルイマン映画を福祉国家スウェーデンとの関連性の考察です。これは、特にスウェーデン人でない私たちにとって、貴重な視点であることは間違いありません。私自身、マスターでの研究の大前提としているのが、ベルイマン作品を一個の芸術家の個人的芸術的達成としてのみ見るのではなく、スウェーデン映画界、ひいてはスウェーデンの文化あるいは社会全体における有機的事象として捉えることです。Hedling氏は、ベルイマン作品における風景が福祉国家の矛盾や崩壊を表象していると捉え、自国の自然を賛美するかつてのスウェーデン映画における伝統的な風景表象の役割と一線を画するものとして論を展開しています。とても興味深い内容です。

だいぶマニアックな投稿内容になってきていますね。いずれにせよ、既に10年前の本になってしまってはいるものの、ベルイマン研究の最前線の一端を知るには最適の一冊です。

あとがきに、大ベルイマン研究者Maaretの先生にあたる大・大ベルイマン研究者Birgitta Steene氏も寄稿しており、私がスウェーデン語を勉強することになった理由を改めて思い出させてくれる言葉が書かれていました。

これらの疑問が伝える事実は、ベルイマンについて書かれてきたことの多くは、彼自身が完全には習熟していなかった言語で書かれ、またスウェーデン語を解さない学者の手になるものであったことである。(p.215)

この引用の少し手前で、彼女は、執筆者に賛辞を送りながらも、本書所収の論文のいくつかは、スウェーデン語文献を参照すればさらに議論を深化できた可能性があることを指摘しています。

自分自身の身に引き合わせてみれば、映画学的な知識を見れば、日本国内の数々の博識な映画学者のみなさまとは比べるのもおこがましいような浅学ですが、唯一私の強みとして挙げられるのが、スウェーデン語文献を読めるということです。これは大阪大学の先生もよくおっしゃっていたことですが、原語に当たることの意義は、英語やフランス語・ドイツ語のようなメジャーな言語と比べてはるかに大きいと言えます。

 

まだまだ未熟なスウェーデン語力ですが、さらに向上させ、いままで日本では知られていなかった視点をベルイマン研究・理解にもたらせるよう、これから鋭意努力していきたいところです。